3Dとの出会い

1984年~1988年の5年間

主人の転勤に伴い二人の子供(当時4歳と1歳)とともにミシガン州とカリフォルニア州に暮らすことになりました

その時出会った3Dピクチャーは帰国後の私の人生を変えるすばらしいアートでした

このページでは開高悦子の3Dピクチャーのルーツとともにアメリカで経験したエピソードなどを皆様にご紹介したいと思います

少しの間お付き合いくだされば幸いです・・・

3D ピクチャー カリフォルニア会
開高 悦子

ミシガン編(1)

1984年夏から、主人の赴任先であるミシガン州のグリーンビルという町で暮らすことになりました。
グリービルはシカゴ空港からローカルの飛行機でグランドラピッツに行き、そこからさらに車で1時間程の湖のある美しい町です.。
この町はDanish系(デンマーク人)などの北欧の人が移民してきたという歴史があり、町の人口の40%をDanishが占めるためアメリカにいながら北欧の匂いのする場所で古き良き時代のアメリカそのもののようでした。
グリーンビルの緯度は北海道の旭川と同じ位置にあり11月の終わりには天から白いものが降りてきます。
冬の良く晴れた日、氷点下20度位になると空気中の酸素が凍りダイヤモンドのようにきらきら輝きながら大気の中を浮遊します。
この現象を“ダイヤモンドダスト”と呼ぶそうで、一面の銀世界の中で見たそれはたとえようのない程の眩しさと美しさで、今でも瞳の奥に強烈な光として残っております。
ミシガンの冬は厳しく、初めての海外駐在と幼い子供をかかえ友達もいない孤独な私を勇気づけてくれたのがこの“ダイヤモンドダスト”だったのかもしれません。
主人の会社からは当時7家族が駐在しておりましたが、社長方針で「同じ町には暮らさないように」ということでした。
もし同じ町に同じ会社の人間が住むことになれば日本人同士がかたまり、アメリカ人の中に溶け込む努力をしなくなるからでしょう。
せっかくアメリカに来ているのだから異文化を体験しようというチャレンジ精神は、今でも私の中に引き継がれているような気がしております。
3Dピクチャーの作家活動をしていく上でもこの精神を忘れたことはないので、当時の社長に心より敬意を表します。
私が最初にしたことは4歳の息子に友達を作ってあげることでした。その為には私がお母さんたちと友達にならなければなりません。
英語の下手な私はいつも辞書を片手に図書館に通い子供向けのお話会(Story Time)に参加するようになりました。
そこで、出会ったのがKaty(ケイティー)です。
デンマーク人のKatyの娘Mata(マータ)と友達になった息子は会話ができなくても仲良く遊ぶので助かりました。
たくさんのアメリカの友人ができましたが、私たちはKaty一家を通じてアメリカの文化を知ることになり、2年半駐在したグリーンビルでの生活を豊かにしてくれた最高の友でした。
Katyはホルン奏者でもあり末期のがん患者のターミナルケアーもするスーパーレディーでありながら家庭的で教育熱心であり、私の英語の家庭教師まで引き受けてくれたのです。
日本料理に興味を抱いたKatyとは、よくキッチンで日米合作料理を作りホームパーティーを開いたものです。
息子の資(たすく)とMata(左の女の子) 息子の資(たすく)とMata(左の女の子)
グリーンビルで迎えた初めての冬は、日本では到底体験できないことの連続でした。
氷点下20度になることも珍しくはないのでドライブする時は路面凍結の車の横すべりには特に気をつけなければなりません。
万が一事故を起こしても人体に影響が少ないようにと駐在員は大型車に乗っている人が多く、私も例外ではなく5000ccのポンティアック ボーネビルという車が与えられました。
この車で買物、幼稚園の送り迎え、病院とすべてやりきらなければならないのです。
はじめはこんな大きな車はいやだと思ったのですが、大事な子供たちのためにも命を守るために選択してのことだということが後からよく理解できました。
タクシーもなくバスもなく、全ての足はマイカーです。
雪道走行をはらはらしながら経験し、畑に落ちそうになったこともありました。
主人は会社までの距離が40キロあるので、もっと大変でした。
車のトランクには毛布・ウイスキー・チョコレート・蝋燭とマッチのセットが必ず積んであります。
これは人家のない道傍で雪に閉じ込められたとき走行不可能になることを想定してのことです。
嵐が止むまでの間、毛布に包まり暖をとりウイスキーとチョコレートでエネルギーをとるためです。
主人の車は4300ccのシボレクラッシックでした。大変お世話になった車たちでした。
冬晴れのある日、ケイティーが遊びに来ました。いつもと違いとても怖い顔をしています。
そして、“悦子がアメリカ人だったら告訴されても仕方がない”というではありませんか。
その理由は玄関前の雪かきをしていなかったからです。
ケイティーが言うには、雪かきをしていない玄関回りで来客がすべったら絶対に告訴されるのだそうです。
安全管理を怠っている家の持ち主に責任があるとのことで白黒はっきりさせるアメリカ人の気質が、このような日常のことからも理解できるのでした。
またケイティーから教えられました。
グリーンビルの家はもちろんレンタルでしたが、
フロントヤード(前庭)とバックヤード(裏庭)を合わせて800坪もある広い敷地のなかに建っていました。
因みに家賃は当時10万円位でした。
車庫は大型車が2台はいるのですが、雪がたくさん積もると道路から車庫までの道(ドライブウエイ)の雪かきも大変なことでした。
そこで、ケイティーの口利きでプロの雪かきの人と契約し、
雪が10センチ以上積もったら除雪車を派遣してもらいドライブウエイの除雪と玄関周りの除雪をお願いすることになりました。
一回10ドル(当時円が240円の時代)くらいだったと記憶しています。半年近く雪にとざされての生活が続くのですから、
一年目の冬は朝焼け見て泣いて夕焼け見て泣いてという状態でした。
冬の厳しさとは裏腹に景色の美しさはクリスマスカードの世界そのものでした。
 
 
冬にまつわるエピソードをもうひとつご紹介いたしましょう。同じ駐在員の体験談です。
会社からの帰り道で鹿が横断するのに遭遇し慌てて急ブレーキを踏んだそうです。
しかし、鹿は親子で行動するために一頭目に気づいても二頭目や三頭目が横断するのにあたってしまうことがほとんどだそうで、彼も鹿と衝突して殺してしまったのです。
こういう時はポリースマンを呼ばなければならず一通りの事情聴取がおこなわれたそうです。
彼は鹿に対してかわいそうなことをしたと思っているのに、ここグリーンビルでは鹿との衝突はラッキーなことなのだそうです。
それは何故か、次の会話を読んででいただければおわかりになるでしょう・・・・  (・・・続く)

このページの一番上へ